3-16051QG013
7月も半ばを過ぎると日本中が夏祭り一色という気配を感じる。五穀豊穣、大漁祈願、家内安全を旗印に山車や神輿が各地の町々を駆け巡ることだろう。大阪の夏は愛染祭りを皮切りに各地でダンジリ囃子が騒がしいが、7月末に住吉さんが終わると8月1日には神輿は大和川を渡り堺(夜市)にリレーされて全ての夏祭りに終止符が打たれることになっている收副乳

房総の玄関、木更津でも八幡様の祭礼があった。40数年を当地に暮らし、子供や孫たちと一緒に地域の仲間入りをした爺も祭り囃子を聴くと何となく心が浮き立つものである。重量が1トン半もあるという大神輿は船頭が艪を漕ぐ時のように向かい合って担がれる。「おッさ・・おッさッ!」の掛け声を連呼・・上総の方言で「そうさ、そうだよ・・」と同調する意味に使う囃子だが地元では日常会話でも時折使っている。

8月の盂蘭盆に跨って「みなと祭り」や「やっさいもっさい踊り」と続く木更津だが名物になった花火大会は港の夜空を彩って豪華である。「やっさいもっさい」はテーマ曲と共に若者達にも浸透した。リズムはサンバで「そーらん節」や「阿波踊り」の房総アレンジ版・・とも云うべきスタイルだ。昭和49年「デュークエイセス」がレコーデング、誕生した「ご当地ソング」である水光槍

「やっさいもっさい」の語源は「矢崎・森崎」の「崎」を方言で「さい」と訛ったのが始まりだとされる。幕末~明治頃、君津(久留里)の山奥から切り出した原木を筏に組み「矢那川」を使って木更津に運んだ歴史があるが、港へ出る手前に「矢崎」「森崎」の地名があって船頭や諸方たちは上総言葉で「浜が近いぞ・・やさい(矢崎)だ・・もりさい(森崎)だ」と唄ったという。「木更津甚句」の囃子にも織り込まれるが職方の掛け声だったらしい。

木更津には実話とされる昔話が沢山あって、お馴染み歌舞伎の『与話情浮名の横櫛』は誰もが知るところだろう。「お富・与三郎」は嘉永6年(黒船来航年)には芝居として初上演されたという履歴が残っている。物語に現れる社寺や墓所が実在し絶えず参詣する人が大勢居るようだ。与三郎通りや証城寺に続く観月通り・・名称は今も昔を留めているが、浴衣を着た芸者衆が三味線を抱えて検番を出入りする姿など昔の風情が見られないのは少し寂しい。

安政の頃、江戸の高座に出演していたという噺家の「木更津亭柳勢」が明治期に「木更津甚句」を高座で披露し曲は忽ち広く知れ渡ったと言うがその人気は一旦廃れたようで、大正時代になって木更津生まれの「小野きく」さんが東京に出て新橋の芸妓になり「若福」と名乗ってお座敷で唄ったところ、これが評判となり「木更津甚句」は花柳界から全国で唄われるようになったと言われる。見染めの松が見える鳥居崎(木更津海岸)には「若福」姐さんも参加した記念像が建立されている濾水器牌子